歯科衛生士コラム『お口の中の気になる話』

第31回 なぜ入院手術の前に歯医者へ? ―口腔管理は全身を守る盾―

2026.10.16

命を守る「周術期口腔機能管理」の重要性

命を守る「周術期口腔機能管理」の重要性

「今度、病気の手術で入院することになった」 そのような大切な局面で、主治医や看護師から「入院する前に、必ず歯科を受診してください」と指示されて、不思議に思ったことはありませんか?

「手術をするのはお腹(あるいは心臓や関節など)なのに、なぜ今、口の中の治療が必要なのだろう?」「ただでさえ入院準備で忙しいのに、どうして歯科に行かなければならないのか」と、疑問や負担を感じる方も少なくありません。

実は、手術前や入院前に歯科を受診し、お口の環境を整えておくことには、手術の成功率を上げ、術後の合併症を防ぎ、早期退院を叶えるための非常に重要な意味があります。医療現場ではこれを「周術期口腔機能管理(しゅうじゅつきこうくうきのうかんり)」と呼び、今やがん手術や心臓手術、人工関節置換術などのあらゆる全身麻酔手術において、欠かせない標準医療となっています。

今回は、歯科衛生士の専門的な視点から、なぜ手術前に歯科受診が必要なのか、その具体的な理由と、万が一に備えて日頃から定期検診を受けておくことの本当の価値について、詳しく解説いたします。

手術前に歯科を受診すべき「3つの決定的理由」

手術を控えた患者様のお口の中を私たちが確認する理由は、大きく分けて「物理的な事故の防止」「術後トラブルの予防」「重篤な感染症の予防」の3つがあります。

1. 全身麻酔時の「不慮の事故・誤嚥」を防ぐため

全身麻酔を行う手術では、自力で呼吸ができなくなるため、喉に「気管挿管(きかんそうかん)」という人工呼吸用のチューブを通します。このチューブを挿入・抜去する際、麻酔科医は金属製の器具(喉頭鏡)をお口の中に挿入し、視野を確保しながら慎重に作業を行います。

このとき、お口の中にグラグラしている歯(動揺歯)や外れかけの被せ物があると、器具が少し接触しただけで歯が抜けたり被せ物が外れる危険性があります。 もし麻酔がかかった状態で歯が抜けてしまうと、以下のような致命的なトラブルにつながりかねません。

・気道塞栓(きそくせん): 抜けた歯が気管に入り込み、窒息を引き起こす。

・肺誤嚥: 歯が肺まで落ちてしまい、緊急の摘出手術が必要になる。

・食道への誤飲: 胃や食道に歯が落ちてしまう。

歯科事前受診では、動揺歯や不適合な被せ物の有無を事前にチェックし、もし危険な歯があれば、あらかじめ糸で隣の歯と固定(暫間固定)したり、場合によっては事前に抜歯を行ったり被せ物を作りなおしたり、麻酔時の物理的なアクシデントを徹底的に回避します。

2. 入院中の「想定外の歯の痛み・トラブル」を防ぐため

手術後は、体力が著しく低下し免疫力も下がります。また、手術の痛みや点滴、安静制限などにより、数日間は自分で満足に歯磨きができない状態が続くことも珍しくありません。

お口のケアが不十分になり免疫力が下がると、それまで症状を出さずに潜んでいたむし歯や歯周病の病巣が、一気に急性化(大爆発)することがあります。 もし入院中に「歯が激痛で眠れない」「歯茎が腫れて食事が摂れない」といったトラブルが起きてしまったらどうでしょうか。

・手術の回復に専念すべき時期に、余計な体力・精神力を消耗してしまう。

・入院している病院に歯科が併設されていない場合、すぐに適切な治療が受けられない。

・鎮痛剤や抗生剤の追加投与が必要になり、全身管理の薬物計画に影響が出る。

このような事態を避けるため、入院前にあらかじめ痛みの原因になりそうな部位を処置しておくことが不可欠なのです。

3. 最も恐ろしい「術後肺炎(誤嚥性肺炎)」や「全身感染症」を防ぐため
3. 最も恐ろしい「術後肺炎(誤嚥性肺炎)」や「全身感染症」を防ぐため

全身麻酔の手術後に最も警戒すべき合併症の一つが、「術後肺炎(誤嚥性肺炎)」です。 麻酔から覚めた直後は、喉の反射(むせたり、異物を吐き出したりする機能)が一時的に低下しています。このときに、お口の中の細菌が唾液とともに気管から肺へと流れ込んでしまうことで、肺炎を発症します。

健康な状態であれば自浄作用で防げる細菌も、手術後の免疫力が落ちた身体にとっては命を脅かす脅威となります。 驚くべきことに、お口の中をプロの手で徹底的にクリーニングし、細菌数を減らしてから手術に臨むだけで、術後肺炎の発生率が半分以下に激減するというデータが確立されています。

また、心臓の弁膜症手術や人工血管・人工関節の手術を受ける場合、お口の中の細菌(特に歯周病菌)が傷口から血管に入り込み、人工物に付着して「感染性心内膜炎」や「人工関節感染」という、命に関わる重篤な全身感染症を引き起こすリスクがあります。これを防ぐためにも、術前の専門的口腔清掃(プロフェッショナルケア)による無菌化に近いアプローチが必要とされるのです。

歯周病菌が全身に及ぼす「悪影響」のメカニズム

「たかが口の中の汚れ、歯茎の腫れ」と侮ることはできません。歯周病は、お口の中だけの病気ではなく、「全身に持続的な炎症を引き起こす慢性感染症」です。

歯周病菌が全身疾患に与える悪影響のメカニズムは、主に以下の2つのルートに大別されます。

【ルートA:血管侵入ルート】

歯周病菌(ポルフィロモナス・ジンジバリス等)が、炎症を起こした歯肉の血管から血流に乗って全身へ巡る。

  ↓

血管の壁に付着し、動脈硬化を促進(心筋梗塞・脳梗塞のリスク増)。

心臓の弁に付着(感染性心内膜炎の原因に)。

【ルートB:炎症性サイトカインルート】

歯肉の炎症によって作られた「炎症性化学物質(サイトカイン)」が、血流に乗って全身に広がる。

  ↓

インスリンの働きを阻害(糖尿病の悪化)。

全身の慢性的な炎症負荷となり、手術後の傷口(創傷)の治癒を遅らせる。

このように、お口の中に重度の歯周病放置部位があるだけで、手術後の全身の回復力そのものが低下してしまいます。外科手術の成功率を最大限に高め、一刻も早く社会復帰するためには、お口の中の「炎症の火種」を可能な限り消し止めておくことが極めて重要なのです。

定期検診の有無が「運命」を分ける理由

手術前の歯科受診において、私たち歯科衛生士が現場で切実に感じている課題があります。それは、「普段から定期検診に通っている方」と「久しぶりに歯科を受診される方」との間に生じる、タイムリミットの壁です。

《定期検診に毎月~数ヶ月おきに通っている方の場合》

普段からお口のメインテナンスを継続している方は、お口の中の環境がすでに良好に保たれています。 病院から依頼を受けて受診された際も、「一度の受診(お口の中の最終チェックと、手術直前の専門的クリーニング)」だけで速やかに準備が完了します。 グラグラしている歯もなく、歯石もほとんどないため、手術に向けて万全の状態で太鼓判を押して送り出すことができます。

《数年ぶりに歯科を受診される方の場合》

一方で、「痛みがないから」と何年も歯科から遠ざかっていた方が、手術前に慌てて来院された場合、状況は一変します。 レントゲンを撮ってみると、自覚症状のない深いむし歯が見つかったり、骨が溶けてグラグラの一歩手前になっている重度の歯周病が全体に広がっていたりすることが多々あります。

この状態から手術に耐えうる清潔な環境を作ろうとすると、以下のような問題が発生します。

・重度の歯石を除去するために、何度も通院が必要になる。

・神経まで達しているむし歯の根管治療(根の治療)を始めなければならず、治療期間が数週間〜数ヶ月に及ぶ。

・麻酔時に危険となる歯を、手術前に抜歯しなければならず、その傷口が癒えるまでの期間を考慮しなければならない。

手術や入院は、時に予定を前倒しして緊急で行われることもあります。 「来週から入院」という極めて短い猶予期間のなかで、これら膨大な治療をすべて完了させることは物理的に不可能です。結果として、必要最低限の応急処置(グラグラの歯を糸で縛るだけ、など)にとどめざるを得ず、不完全な状態で手術に臨まなければならないリスクを背負うことになります。

健やかな日常と、万が一への備えのために

健やかな日常と、万が一への備えのために

人生の中で、予期せぬケガや病気による入院・手術の機会は、誰にでも突然訪れる可能性があります。 そのような緊急事態において、お口の健康状態が全身の治療の「足かせ」になってしまうことは、非常に悲しく、また避けるべき事態です。

普段からの「歯科の定期検診」は、単にお口の爽快感を保ち、むし歯を予防するためだけのものではありません。 それは、「いつか訪れるかもしれない全身の病気や手術という試練から、あなた自身の身体と命を守るための強力なシールド(盾)を作ること」に他ならないのです。

私たち歯科衛生士は、皆様が健やかな毎日を送り、万が一のときにも安心して最適な医療を受けられるよう、日頃の定期検診から全力でお口の健康をサポートしております。

最近、歯科医院から足が遠のいているなと感じる方は、ぜひこの機会に一歩を踏み出し、未来の自分への投資として定期検診を始めてみませんか?皆様のご来院を、心よりお待ちしております。

アルティス歯科・矯正・口腔外科クリニック西宮北口

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